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2012年7月26日木曜日

幸せはいつも自分の心が決める、のか?

20歳を過ぎた頃から変に大人ぶって、「まあその人が幸せならそれでいいんじゃないの?」といったスタンスをとる事が多くなってきました。自分の価値観やものさしで他人の事を判断し、変におせっかいを焼いたり本人サイズの幸せを見つけて生きている人を否定したりする事は偽善的でありがた迷惑な行為だ、などという事を「あなたは目覚めてないから本当に幸せではないのです!」と宗教的勧誘をする人達を例にあげて考えたりしていました。


  ただ最近少し考え方が変わってきて、やっぱり幸せというもの(あるいは幸不幸というもの)にもある程度客観的な定義が必要なのではないだろうか、と思うようにもなってきました。もっというならば、社会的動物である僕ら人間にとって、不幸や幸せというものは自分の他人との比較の上でしかやはり成り立たないものなんじゃないか、と思い始めたのです。比較をしない事は、結果的に僕らを少しずつ社会的なものさし上で不幸にしていってしまうのではないかと。

  それが顕著に表れる部分として、幸不幸に鈍感になっている場合です。ものすごく恵まれているのに小さい事で不平不満を言ったり、どう考えたって過酷でキツイ状況なのに自分を騙して(または他人に騙されて)なんとかしていたり。僕らが主観的に幸不幸などというものを判断してしまっては、大切な物をそうでもないと思って捨ててしまったり、逃げるべき場面で我慢してしまったり、間違いばかりを起こしてしまいそうです。僕らの主観や感情というものはいつだって間違いを起こしますし、その度に僕らは過去の自分を呪ったり後悔したりするわけですから、人生のある種の目標といってもいい「幸せ」というものを、自分の心などという曖昧なものだけに頼っていいわけがないんじゃないの? などと思います。まあ人それぞれだよね、とかケースバイケースだよね、というのは多くの物事において圧倒的事実ではあるのですが、やっぱり多くの物事において人それぞれやケースバイケースであることは、ある一定の枠の中で、とかある一定の基準の上の範囲で、という但し書きがつくわけで。その枠や基準をとっぱらってしまって、僕らが一人一人ゼロから幸せというものを定義するようであれば、多くの人は失敗する、つまり不幸になってしまうんじゃないのだろうか、と思います。


  だから僕らはある程度相対的な目を持つ必要がありますし、たまに冷静に周りを見回して比較検討してみる必要があるかと思います。さらに言えば、やっぱりどう考えても不幸な人には「君は今不幸だよ」と伝えてあげて、恵まれてる人には「あなたは恵まれていますよ」と言ってあげる必要があるんじゃないかと。それは面倒な行為ですし、疎まれたり、凹んだり、調子に乗ったりと、あまり良いモノには感じないような気もしますが、多分長期的には社会全体の幸福度は上がっていくんじゃないかなぁと。



  まあ僕はシュークリームとか食ってれば幸せなんですけどね!!